読書日記(ピック・アップ版)(平成23年〜令和4年)
(Since 2006/10/05)
(最終更新:令和4年8月10日)
令和4年8月9日読了 須藤靖「宇宙は数式でできている」(朝日新書)
アインシュタインは特殊相対性理論、一般相対性理論を「発見」!!した。すでに過去からずっと存在していたものを「発見」した。だから、実験で正しさを確認できる。
他方、法学など社会科学では、正しいとされる新たなものを造りだしている。過去にあったものではないから、実験で正しさを確認できない。
認識を新たにした。
令和4年8月6日読了 須藤靖=伊勢田哲治「科学を語るとはどういうことか〔増補版〕」(河出書房新社)
物理学者(宇宙物理)と科学哲学者の対談の書籍化。
「我々の議論はほとんど平行線だったかもしれないが」(5頁)と回顧されるように、「哲学者と科学者の科学に対する捉え方の違い」(5頁)が現れている。
以下、まず、それが現れていそうな部分について、ピック・アップ。
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(127頁)
須藤 率直に言って開いた口が塞がりません。
(165頁)
伊勢田 自然科学はそういう方法論であるべきなのかもしれませんけども、哲学はそうではない。
須藤 確かにそうでしょうけれど、何ら具体的戦略無しに因果などという漠然とした大問題に挑戦する気持ちがわかりませんね。何であれ、具体的なプログラムを提示して研究することで初めて議論に意味がある。
でなければ、私や新橋の酔っぱらいのオッサンのいちゃもんと変わらない。給料をもらいながらそんな方法論のまま、優秀な学生にそのような方法論を身につける教育しかしていいなとすれば、ほめられた話ではないですね。
伊勢田 価値の話はしたくないと言いながら、ずいぶんと強い価値判断をされているわけですけれども。
(181頁)
須藤 ……このようなレベルの話を「理論」と呼ぶのかという純粋な驚きはありますが、これは文化の違いでしょうね。せいぜい、説、解釈、主張と呼ぶのが適切でしょう。
(237頁)
須藤 結局、白黒つかないものばかりを対象にしているから、先人の到達点を参考にしないと仕方がないということになるのでしょうかね。
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なお、最近、「査読」について考えさせられることがあり、以下の部分を引用しておく(335頁以下)。
【本書は〔増補版〕であり、初版本に対し、いろいろなコメントがあったようである。コメントと、コメントに対するコメントの部分】
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初版に対するコメント部分
研究成果の発表媒体として書籍や論文がありますが、研究者にとっては、あるいは、市民にとっては、どういう形態が望ましいと考えられるでしょうか? 厳しい査読を受けて質保証されている知識の蓄積・流通形態と、査読されていなくて玉石混淆であり内容の価値判断は読み手に任せる形態とを、はっきりと棲み分けて使い分けた方がよいのではないでしょうか。 谷村
対談部分
伊勢田 多様な発表の媒体にはそれぞれ長短があり、目的に応じていろいろなものを組み合わせるべきだと私は思います。特に人文系の研究は、想定する読者が同業者でないようなものを書く機会も多く、それには「査読誌」は不向きでしょうね。
そもそも「査読」というシステムは、研究のパターンがある程度固定されていて研究の質の評価がある程度機械的にできるような領域で発達したもので、これまで誰も考えてなかったような問題について一から考える、といったテーマの論文には不向きです。哲学の論文にも両方のパターンがあって、前者のパターンの論文は査読を経て査読誌に掲載すればよいですが、後者のパターンはむしろ出版後の評価によって評価がさだまるようなしくみの方が望ましいように思うのです。
須藤 私はこの件では谷村さんよりも哲学側に共感しているように思えてきました。しかし、実際はむしろ逆で、哲学にそこまで期待しても無理だから、と突き放す失礼な態度なのかもしれません。
伊勢田 ただ、哲学において思いやりの原理がうまく機能しているかというと、私は、たぶん谷村さんが考えているのと逆の意味において、あまり楽観的ではありません。つまり、自分と異なる立場を十分に理解しようとせずに頭ごなしに否定するような議論のしかたが哲学でも残念ながらよく見られると感じています。
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その他、
本文で「査読」について論じられたのは29頁以下。
法学関係で、「自由意志」(法学だと、通常、「自由意思」)について言及されたのは、96頁ほか。
なお、私は、須藤先生がUPに連載されている「注文の多い雑文」のファンであり、書籍化されたものも個人で購入するくらいである。それが何だと言われれば、それでけの話なのだが。
令和4年3月30日読了 知念実希人「硝子の塔の殺人」(実業之日本社)
巻末の島田荘司「『硝子の塔の殺人』刊行に寄せて」にあるとおり、スゴイ本。
令和3年10月1日読了 橘玲「無理ゲー社会」(小学館新書)
OECDの「国際成人力調査」結果を受けて、
「私がこの調査に興味をもったのは、その結果をどのように解釈しても、次のような驚くべき事実(ファクト)を受け入れざるを得ないからだ。
@日本人のおよそ3分の1は日本語が読めない
A日本人の3分の1以上が小学校3〜4年生以下の数的思考力しかない
Bパソコンを使った基本的な仕事ができる日本人は1割以下しかいない
C65歳以下の日本の労働力人口のうち、3人に1人がそもそもパソコンを使えない」(104頁)
すべての分野で日本人の成績が先進国で1位(同頁)だとしても、「これでよいのか、日本の義務教育!」。
令和3年9月5日読了 西成活裕「東大教授の考え続ける力がつく思考習慣」(あさ出版)
「私は大学でも、スライドを見せながら効率的な授業をすることをあえてしません。
黒板やホワイトボードに板書して、学生にノートを取らせて、プリントもなるべく配らないようにしています。
そのほうがはるかに、学生たちの記憶の定着率が高いと感じています。」(158頁)
「世界一受けたい授業」の常連?の東大教授の授業方法。
近時、パワーポイントを使わない授業を「悪い授業」と決めつける一部の関係者に反論。
令和3年9月5日読了 長岡弘樹「風間教場」(小学館)
以下、風間公親(テレビドラマでは、木村拓哉)と警察学校校長・久光の会話(187頁)。
校長「ところで、子供に勉強させるため、親がすべきことは何だと思う? 『勉強をしなさい』と口で強く言うことか?」
風間「いいえ」
校長「では何だ」
風間「親自身が勉強をしてみせる。それ以外にないでしょう」
校長「そのとおりだ」
私は、子供に「勉強しろ」といったことがない。ただ、私が勉強している姿を子供が見ていたかは定かではない。というか、たぶん見ていない。
平成30年10月8日読了 長岡亮介「東大の数学入試問題を楽しむ」(日本評論社)
「筆者の手もとにある『正解』を自称する書物に載っている解答は、実に意味が不鮮明で、問題の本質的な把握に失敗した結果としか思いようがない。しかも、その『解答』の執筆者は、与えられた定数a、b、cについて、それらが実数であるとも複素数であるとも東大の出題者が明示していないことについて、鬼の首を取ったかのようにいろいろ論評を書いているが、これから述べることから明らかなように、元々、そんなことは関係があるはずもない問題ないのである。事柄の本質を理解せずに、それによって生ずる不明を隠すかのように、あれこれいって誤魔化すのは、大衆政治家に限らない。似非被学者、似非非評論家にはくれぐれも気をつけよう。」(88頁)
法律問題の解説に通ずる。
平成23年2月20日読了 羽生善治「羽生善治の思考」(ぴあ)
「簡単に手に入ったものはすぐに消えていく」(13頁)
「役に立たないとか意味がないと思っていることのほうがむしろ重要なんじゃないか」(79頁)
勉強に通ずる。
平成23年1月25日読了 柳田幸男=ダニエル・H・フット「ハーバード卓越の秘密」(有斐閣)
日本の法科大学院制度は、アメリカのロー・スクール制度と似て大いに非なるものである。なかなかうまくいきそうもない。
制度を取り入れるときは、その関連・周辺制度も含め取り入れる必要があり、さらに文化的背景、利害関係者の得失・思惑等にも注意しながら効果・結果を予測・検証してから実施しなければならない典型であったといえよう。