ミシガン日記(2002年9月)
2002年9月30日(月)晴れー若く見える?
チャーチの英会話教室へ行く途中、バスの中で韓国人と話している際、いわれたが、私は、30歳か、35歳くらいに見えるらしい。たしかに、Tシャツに半ズボン、首から鍵の束とバスパスを提げ、腰に携帯電話をつけている姿では、学生としか思えないかもしれない。40歳だというとびっくりしていた。
今日からまた夏ようような暑さになった。夏になったり冬になったり、寒暖の差が極めて激しいところだ。
2002年9月29日(日)雨のち曇りー体調不良
下の子が、夜、数回起きるので、その度に水を飲ませてまた寝かせているが、5時半頃起きたとき、かなりめまいがした。その後、めまいは治らず、頭痛と吐き気を伴ったので、朝食を抜き、午前中は、安静にしていた。午後になってやっと少し回復した。睡眠不測と疲れから来ているのだろうか。午前中は、立って歩くこともできず、かなりしんどかった。治ってよかった。
2002年9月28日(土)晴れー久しぶりにモールで買い物
ウルトラマン・ティガの第3週目である(1回に2話ずつなので、今日で第6話まですすんだ)。相変わらず、上の子はウルトラマン・ティガの真似をしながらテレビ、および終了後直ちにビデオを見ている。これを見て、シュワッチと声をかけると、下の子も真似をして光線を出す格好をするようになった。ちなみに、ウルトラマン・ティガでは、「掛け声」は「シュワッチ」ではなく、「ハーーー」のようである。また、ウルトラマンティガのGUTSの隊長は女性だが、隊員が「Yes,
Sir」と答えるのは少し気にかかる。女性に対して「Sir]でよいのだろうか。あるいは隊長は男性であることを前提とした誤訳か。それとも隊長に対しては女性でも「Sir」か。
午後から久しぶりにモールへ買い物。秋・冬用の洋服を少し買う。
2002年9月27日(金)晴れー万・億・兆・京・ガイ・・・
朝、上の子と日本から持ってきた「ウルトラマン・コスモスの秘密」を読んでいる際、コスモスの体重が大人70万人分であると書かれているのに接した。金沢市の人口(大人から子どもまで)を合わせてもコスモスより軽いかと、少々笑ったが、上の子は、「70万」とはどのくらいかと尋ねる。仕方がなく(のつもりだったが、妻には嬉々としてやっているように映るらしい)、一、十、百、千、万と教え、ついでに十万、百万、千万、一億、十億、百億、千億、一兆、十兆、百兆、千兆、一京・・・とアラビア数字でゼロを1つずつ増やしながら教えていった。どこまでわかったかわからないが、このような行為に対し、妻は、単なる「教育パパ」だとして、極めて冷たい目で見ているのであった。
現在執筆中の論文が、与えられた枚数を大幅に超過しそうなことがわかった。なんとか、短くする作業に着手。
2002年9月26日(木)晴れーコーヒー・タイム
ロー・ライブラリーで、教員と学生のコーヒータイムが開かれた。少しのぞいてみると、学生と先生が談笑している。参加するのはやめにして、遅れている原稿執筆に専念した。
2002年9月25日(水)晴れーこちらのテレビは
ウルトラマン・ティガの件もそうだが、こちらはチャンネルが多すぎてソフト不足がはなはだしいようだ。子供向けアニメも同じ日に繰り返し放送があり、さらに4月頃やっていたものを9月になって再放送している。日本では考えられない。そういえば、ついこの間までFOXテレビでやっていた「パワー・レンジャー」(日本では「ガオ・レンジャー」)が終了の翌週からABCテレビで再放送されている。これまた、日本では考えられないことだ。
2002年9月24日(火)曇りー妻の妹が学会
契約法のクラスで、伊藤忠商事(C.Itoh &
Co.)のことを「C.アイトウ」と発音していた。伊藤忠商事はアメリカでは「アイトウ」と呼ばれているのか。そういえば、私の名前は「オウジマ」と発音されている。これと同じか。
火曜日は妻が夜のクラスに出かけるので、妻の妹が手伝いに来てくれていたが、今週は学会で不在。したがって、最初から最後まで私1人で2人の子どもを見ることになった。上の子は、ウルトラマン・ティガのホームページで2時間ほど遊んでいた。下の子は、風邪気味がひびいてか、7時半頃から約30分間睡眠。
2002年9月23日(月)曇りーみんなが英語ペラペラ
下の子は、少し咳と鼻づまりが残っているが、ナーサリーへ行かせた。幸い問題なく帰宅した。
夜、チャーチの英会話教室に行ってみると、4つあるクラスのなかで最上級の「トップ・アドバンスト」クラスに入っていた。私以外の人はみんな、スラスラと英語を話しており、すこし困っている。私は、基本的に通じればよいという姿勢で英語を話しているので、発音は「日本語英語」である。といっても、これでは通じないこともあり、以前、電話で食事のテイク・アウトを注文しようとした際、ドレッシングの「サウザンド・アイランド」が通じなくて困った経験がある。まあ、できる限り、発音を治したい。
2002年9月22日(日)曇り一時雨ー熱は引くが咳と鼻水
朝、非常に寒い。すでに最低気温は零度近くまで下がるようになった。ついこの間まで扇風機を回していたのが嘘のようだ。
下の子の熱は、午後になって下がったが、咳と鼻水が出てきた。仕方がないので、安静第一。基本的に、下の子は家で過ごし、私と上の子で買い物に出かける。
2002年9月21日(土)曇りのち晴れー熱続く、咳の風邪
下の子の熱は続き、咳がでている。先週の病気とは症状がまったく違う。
上の子は、ウルトラマン・ティガの第二週目を堪能。相変わらず、ウルトラマン・ティガの真似をしながらテレビとビデオを見ている。第一週目のビデオは、この一週間で30回くらい見ただろうか。今回のビデオは何回見るのだろうか。
2002年9月20日(金)雨ーまたまた発熱!
朝、下の子が発熱している。先週に引き続き、今週も発熱だ。上の子だけ、ナーサリーへ送っていき、自宅へいったん戻る。その後、今日は、妻が下の子をみていることにし、車で大学へ出かけるが(少し遅い時間にもかかわらず、今日は金曜日で駐車場が空いているだろうという淡い期待があった)、何か行事があるようで、駐車場の入り口にポリスが立っており、何かの紙を見せた人だけ、駐車スペースの三角コーンをどけて駐車させている。入り口で駐車してよいかを聞くと、パーミットがあるか聞かれ、あると答えると、空きスペースがあれば駐車して良いという。だが、眺めてみた限り、空きスペースにはすべて三角コーンが立てられ、その他の空きスペースはない。駐車場内を一周した後、仕方なく自宅へ戻る。私自身も今週ずっと風邪気味だったので、今日は、自宅で過ごすことにした。
自宅に戻り、今日は、久しぶりに「休日」にすることにした。シカゴで買った文庫本の1冊、倉知淳「星降り山荘の殺人」(講談社文庫)を読みはじめる。4月にフォードのディラーで車の修理をしてもらいながら、日本から持ってきた文庫を読んで以来の、日本の小説である。「あくまでもフェアーに」が売り物の新本格推理の1冊であるが、作者の罠にみごとにはまって最後まで真相が見抜けなかった。先入観とは恐ろしいものだ。
上の子は、先週打った歯がまだ痛いといっている。血は止まったようだが、・・・・。虫歯の方はあまり痛いとは言わない。
2002年9月19日(木)曇りのち雨ー写真撮影は苦手
図書館で本を持って写真撮影をしたが、どうも写真撮影は苦手である。スマイルといわれても、なかなか笑えない。
2002年9月18日(水)雨ー久しぶり
今日は、久しぶりに朝から雨で、かなり降り続いた。これからはこういう日が多くなるのだろうか。
夕方、図書館で勉強していると、ロー・スクールのマーケッティング係りの人がやってきて、明日、私の写真を撮りたいので都合がよいかを確認に来た。マガジン(パンフレット?)に載せるようだ。
上の子は、歯が痛いとあまり言わなくなった。虫歯はどうなった?
2002年9月17日(火)晴れーもう帰り支度か
もうそろそろ帰りの飛行機の格安チケットが出ているだろうと、旅行者に電話をすると、出ているとのこと。予約を入れる。つい最近アメリカに来たような気がするが、もう帰り支度をしなければならない。早いものだ。
クラスでは、予習不足で答えられず、先週休んでいた学生が出席していた。まだ諦めていなかった。日本と違い、「この授業」にお金を払っている事実は、放棄を減少させる。
2002年9月16日(月)晴れー計算能力
アメリカ人はあまり計算の練習をしておらず、とくに引き算は苦手であるといわれる。これに対し、日本人は、計算は速いが、じっくり考える問題ができないといわれている。今日、昼食の代金は4ドル76セントであった。私は20ドル1セントを出したが、係員は、おつりを16ドル24セントくれようとしている。私が、私が手渡したのは20ドル1セントであるといっても、自分の間違いになかなか気づかないようだ。いったんレシートを受け取り、見てみてわかった。受け取った金額が21ドルになっている。入力を間違えると、あとはダメか。わざわざする必要もなかったかもしれないが、結局、その後、レシートを元に説明して、おつりを15ドル25セントにしてもらった。すいている時間帯でよかった。
今日から再び模擬法廷で別の裁判が始まったが、傍聴に付き合っていると他に何もできないので、今回は、傍聴しないことにした。
午後7時からのチャーチの英会話教室に登録。今日は、クラス分けのためのインタビューのみ。クラス分けの結果は来週発表。これで、毎週月曜日は私が、火曜日は妻が夜出かけることになった。
2002年9月15日(日)曇りー虫歯か?
上の子が、さらに歯が痛いといっている。打った歯はかなりよくなったようだが、別に虫歯があるようだ。素人目には虫歯は確認できないが・・・。
2002年9月14日(土)晴れ夕方曇りーウルトラマン・ティガ始まる
上の子にとって待ちに待ったウルトラマン・ティガが始まった。時間は、午前8時30分から30分と10時から30分の2回。1日に2回あって話が続いていくのは、日本ではなじみがない。予定通りビデオに収録し、上の子は今日だけで10回以上繰り返してみていた。格闘シーンや光線を出すシーンの研究に余念がない。
FOXテレビの土曜日の午前中は、ウルトラマン・ティガ、カービー、筋肉マンと日本のアニメばかりやっている。ケーブル・テレビを含めチャンネルが多すぎるのでソフトが追いつかず、外国から買うしかないのか。それも延々と日本のアニメをやっているとは。
夕方、近所の日本人の家で持ち寄りパーティ。我が家は、焼き豚、ブロッコリー・カリフラワーサラダ、五目&山菜稲荷、カボチャの煮つけを提供した。かなり時間がたった頃、上の子が、ウルトラマン・ティガのビデオを持ってきてほしいとダダをこね、参加者にかなり迷惑をかけてしまった。結局、親が折れて、皆でウルトラマン・ティガの鑑賞会をする羽目になったが、上の子は、どうしても皆にウルトラマン・ティガを見てほしかったらしい。
上の子の歯はまだ痛むらしい。
2002年9月13日(金)晴れー手足口病でない!
午前中、10時半の予約で小児科へ行く。かなり待たされたが、手足口病でないという診断。口は単なる口内炎のようであった。
小児科に行って思うことは、一緒に来ている父親がかなり多いということである。平日の午前中だから当然、仕事を休んできている人が多いと思われるが、それにしても父親が多い。こちらでは、子どもが病気のとき、父親が付き添うのが当然なのであろう。したがって、職場も容易に休むのを許してくれるのであろう。それだけ、誰かが休んでも代わりの人がいる体制ができているということか。日本ならば、子どもの病気で父親が仕事を休むということに関し、まだまだ社会の理解は得られていないだろうし、代わりに仕事をする人も簡単にはいないだろう。休んだら休んだだけ仕事が溜まっていくのが日本の現状である。かなり前になるが、阪神タイガースのバースが子どもの病気でアメリカに帰ってしまい、結局、阪神を解雇されたのを思い出してしまった。
電話の臨時バイパスがとれ、本来の線に戻ったようだ。不通から2週間以上たっている。何もいわなければ、こんなに長い間電話を使わせない予定だったのだろうか。
上の子が、夜、バス・ルームで転んで前歯を強打した。幸い折れたり抜けたりしなかったが、出血してかなり痛がっている。
2002年9月12日(木)晴れー手足口病か
下の子の熱が下がったが、ナーサリーで手足口病が発生したというアナウンスがあった。よくみると、下の子の唇にできもの様なものがある。手足口病か?
クラスでは、予習不足だった学生が相変わらず休んでいた。いよいよ諦めたか?
2002年9月11日(水)晴れー熱続く
下の子の熱が続く。上の子は、ナーサリーへ行くのを嫌がる。
同時多発テロから一年を経過し、ここでも1周年記念行事がたくさん行われている。また、テレビでは特集番組が多数放送されている。
2002年9月10日(火)晴れ夕方一時雨ー発熱・嘔吐!
朝、下の子が発熱している。ナーサリーを休みして、妻が家で様子を見た。夜、嘔吐。熱は下がらず。
クラスでは、先週の木曜日に予習不足で答えられなかった学生が休んでいた。もう諦めたか?
上の子は、相変わらず、ナーサリーへ行くのを嫌がっている。
2002年9月9日(月)晴れータイヤ修理
朝、子どもをナーサリーへ送って、その足でタイヤの修理へ行く。飛込みだったせいもあって、修理に1時間半ほどかかるといわれる。仕方がないので、隣のマイヤーで買い物をしながら待つことにした。めでたく修理完了。
このごろ、再び上の子はナーサリーへ行くのを嫌がるようになった。
2002年9月8日(日)晴れー車がないと大変だ!その2
朝、ランドリーへ寄り、近くのコンビにまで車で新聞を買いに行くとき、車の右前輪にボルトが刺さっているのを発見。幸い、ボルトが蓋の役目をして、空気は漏れていない様子。いつ刺さったかわからないが、もしかすると、シカゴも一緒だったか。いずれにしても修理は早いほうがよいと思い、すぐにタイヤ・ショップにいったが、日曜日なので3箇所も休みであった。修理は翌日まで延期した。
午後は、前日に引き続き、同じ家族の買い物に付き合う。今回は、ご主人と奥さんとともに、まず、ベイビー用品の店へ行き、トイザラスへ行き、チャイルド・シートを購入し、マイヤーへいって食料品その他を購入した。翌月曜日には、まず運転免許のペーパーテストを受ける予定であるといって別れた。
夕方、近所の日本人で、イギリスの学会に2週間ほど行っておられた方が、遊びに来てくださった。上の子は、非常に喜んでいた。
2002年9月7日(土)晴れー車がないと大変だ!
新学期が始まり、こちらの学期に合わせて留学する日本人の情報が入った。我が家と同じように、3歳、0歳の男の子を連れてこられた方が、まだ車がなく、買い物にも不便をしているとのことで、電気製品の買い物にお付き合いをした。ご主人と一緒に、まず電器の量販店で、電子レンジ、トースター、プリンターを買い、携帯電話の資料をもらうためAT&Tの店へ行き、といざらすでチャイルドシートを見た後、フォードのディラーで中古車の下見をした。結構、価格が高いのには驚いた。上の子は、久しぶりに日本人の子どもと一緒に遊べて、非常に喜んでいた。
2002年9月6日(金)晴れー評決(傍聴日記・第3日)
9時、陪審員が入廷し、説示が開始される。わかりやすい言葉で、これから陪審員のなすべき義務を説明し、適用の可能性のある法を説明した。その後、1名の女性陪審員が突然、免除され、陪審員は12名となった。理由は述べられない。
9時30分、12名の陪審員は、退廷し、評決のため陪審員室へ向かった。また、陪審員室での陪審員との間の連絡係りとなる係官は、陪審員とこの事件について話をしないなどを宣誓して、任務についた。
評決にかかる時間はわからない。私は、いつ裁判が再開されてもよいように、傍聴席に残ることにし、契約法の本を読み始めた。
10時40分頃、係官が1枚の紙をもってきた。評決が出たかと思ったが、実は陪審員からの要請であった。被告人の指紋の写真を見たいという。裁判官、検察官、弁護士で協議がなされたが、本法廷に被告人の指紋の写真は証拠として提出されていない(指紋が一致したという証言のみ)ので、できない旨を回答した。
11時30分、評決が出た旨の連絡があり、その後、全員起立して陪審員を迎える。係官が、被告人は銀行強盗の罪で有罪である旨の評決を読み上げ、直後に、陪審員一人ひとりを呼び(ジュリー・ナンバー1、2、・・・・といように。免除されたのは3番だったので、3番はとばされた)、陪審員の評決がこれで間違いないかを確認していった。全員がイエスと答え、裁判官が被告人の有罪を宣言し、裁判は終了した。
感想:@3日間(実質、2日ー初日午後、2日目終日、3日目午前)で裁判は終わってしまった。無罪を主張している裁判としては、日本では考えられないスピードである。日本なら1年か2年はかかる裁判だろう。当然、陪審員がいるので、そんなにたびたび、しかも長期間拘束できない。短期に集中してやってしまうところが特徴だ。日本で素人を裁判に参加させるのであれば、裁判日程を根本的に見直すことになる。これに現在の裁判官、検察官、弁護士が対応できるかどうか問題である。
Aこの裁判、指紋の証拠性について主張するといいながら、最初から被告人側が勝てる気がしなった。証拠調べによる私の心証も、被告人真っ黒であった。なんとなく裁判官もそんな感じであったような気がする。最後は、わりとあっけなかった。
B陪審員制は、一般の人に対し、裁判を身近にするだろうが、それに伴うコストも膨大である。日本では無理か?
Cここに、陪審員が不在中の法廷内の出来事を記してしまったが、陪審員の評決はすでに出ており、仮に日本語の読める陪審員が混じっていたとしても問題ないことになる。裁判長も、陪審員に対し、もう評決が出たから、この事件について外で話をしてもよいといっていた。
D結局、ほぼ丸2日、クラスの予習と研究を中断して裁判を傍聴したが、非常に得がたい経験であった。
2002年9月5日(木)晴れー証拠調べ(傍聴日記・第2日)
今日の課題は、証拠調べである。陪審員の入廷に先立ち、裁判官、検察官、弁護士の間で、法律問題が議論される。被告人側からのいくつかの申し立てが棄却された。また、被告人側で別の弁護士を連れてくるようにとされた点については、被告人弁護士が他の弁護士は別の法廷があり、来られないと説明した。
その後、陪審員が入廷した。この際は、全員が起立して迎える。扱いは、裁判官と同じである。そして、証人が次々に呼ばれ、証言していった(証人は、別室で待機しており、証言前に他人の証言を聞くことはできない。この点でも、「予断の排除」が徹底している。確か日本では「在廷証人」が認められていたと思うが)。証人はまず、係員に顔のデジタル写真を撮られる。証言をした人間の証拠を残すためだろう。そして、当然、証人は、真実を述べ嘘をつかない旨の宣誓をした上で証言する。また、証言が終わると、裁判官から「免除されました」といわれる。これも証言が義務だからか?
(以下、メモを取ったわけではないので、忘れてしまった証人がいるかもしれないが、記憶に基づいて状況を記す)
1.強盗にあった銀行で働く女性ー事件の際、犯人と遭遇し、モンタージュ写真の作成に加わった。犯人は被告人である旨、明確に証言した。
2.強盗にあった銀行にお金を引き出しに来ていた客ー事件の際、犯人と遭遇し、モンタージュ写真の作成に加わった。犯人は被告人である旨、明確に証言した。
ここで、少し中断があった。陪審員がいったん退廷した後、次に現れたのは、囚人服を着、手錠と腹帯をされた男性であった。この現在収監中の男性を証人とするかどうか、裁判官と検察官、弁護士の間で議論がなされた。この男性は、被告人とは別の男性がこの銀行強盗に関与したと聞いたといっているらしい(このような証人を検察側が申請しているのは、少し奇異だが、関与したとされている男性の写真が法廷にあり、前の証人二人は明確に犯人ではないと証言していた)。この男性の弁護士も在廷して意見を述べている。ここでの証言が自身の裁判を不利に導くようならば、証言するかどうか問題となる。かなり長い間、議論がなされたが、結局、被告人の弁護士が免除を主張し、この男性は証言を免除され、退廷した。
再び、陪審員が入廷し、証言が続けられた。
3.強盗にあった銀行で働く女性ー事件の際、犯人と遭遇し、モンタージュ写真の作成に加わった。犯人は被告人である旨、明確に証言した。
4.強盗にあった銀行で働く女性ー事件の際、窓口で仕事をしていた。犯人とは8フィートくらい離れていたといい、モンタージュ写真の作成には加わっていない。法廷内に犯人はいるかとの問いに、わからないと答えた。
5.証拠を収集した警察官ー証拠の収集が適性に行われた旨を証言した。
6.モンタージュ写真を作成した警察官ーモンタージュ写真の作成法について証言した。
12時10分、昼食休憩、13時15分再開が宣言され、休廷となった。私は、木曜日には12時15分から13時30分までクラスがあり、そちらに出なければならない。急いで教科書等を取りにいき、教室へ行った。少し延長してクラス終了。その後、急いで食事をして法廷に戻ったのは14時10分頃であった。法廷が再開されてから、ちょうど1時間ほど経過している。証人の証言の途中であった。
7.指紋を鑑定した係官ー現場の紙に残された指紋と被告人の指紋が一致している旨、証言した。
8.ガバメント・エイジェンシーの担当者ーこの人は最初から検察官の横に座り、以前の証言もすべて聞いていたが、証人として証言した。手続きの適切性を証言したようだ(実は、私には、証言の趣旨がよくわからなかった)。
9.被告人の元勤め先に勤める女性ー出勤簿に基づき、被告人が事件当日欠勤している旨を証言した。
以上が、検察官が申請した証人である(主尋問・反対尋問の順序から判断した)。
10.被告人の元勤め先に勤める女性ー給料の支払い方法について証言した。被告人がいつ事件のころとチェックを受け取ったか、いつ現金化されたかはわからないと証言した。
この人だけが、被告人側が申請した証人である(主尋問・反対尋問の順序から判断した)。被告人が金を受け取っていれば、銀行強盗などしない、ということを主張したかったようだ。
15時5分、陪審員が退席し、20分の休憩。その際、裁判官から傍聴席で私のすぐそばに座っていた男性に注意がなされた。その男性は、陪審員を送迎するためのバスの運転手だそうだが、この事件について陪審員と話をしてはいけない、とくに陪審員が不在中に法廷で起こったことを絶対に陪審員に話してはいけないと強調された。運転手は、わかっていますと答えていた。ここでも、予断の排除に抜かりはない。
15時25分、再び陪審員が入廷し、再開。裁判官は、証拠調べの要約と、陪審員の義務について簡単に説明し、明日の朝に説示する旨を述べた。その後、陪審員、退廷。
16時頃から、被告の申し立てを1つ棄却し、翌日なされる説示について裁判官、検察官、弁護士で調整がなされる。16時30分、翌日9時開廷を宣言して閉廷。
感想:@証人が雄弁である。証人は物怖じせず、目の前にいる被告人に向かって、「その人が犯人です」といい、また聞かれたことを雄弁に語る。基本的に、「はい」「いいえ」で答える日本の証人とはまったく違う。
A予断の排除に対する徹底が重要である。
クラスでは、判例の要約を当てられた学生が予習不足のせいで、答えられなかった。サマー・セメスター以来、当てられて何も答えられなかった学生は、この学生が始めてである。教授は、さっさと別の学生を当てた。予習をしていない学生は授業に参加できないのがこちらのルールだ。
2002年9月4日(水)晴れー模擬法廷の本当の裁判(傍聴日記・第1日)
ロー・ビルディングに模擬法廷がある。今日からそこで本当の裁判が開かれるので、傍聴しに行って来た。時間が昼の12時からと、日本では「昼休み」の時間であった。遅れるとまずいと思い、11時頃,昼食をとり、12時前に模擬法廷へ行った。ところが、入り口では、さながら飛行機の入場口のように、セキュリティ・チェックが行われており、私は、通勤(通学?)用のかばんを持っていたので、入場できないといわれてしまった。仕方がなく1階の図書館まで戻り、かばんを置いて再び行った。金属探知機をくぐる際には、金属はすべてかごに入れろといわれ、財布の小銭入れまで開けて調べられた。私は、これで身に着けている金属は、ベルトのバックルだけのはずだといったら、それはオーケーだといわれ、めでたく入場を許された。
12時を回った頃、裁判官が現れた。日本と同じように全員が起立して迎える。今回は、刑事事件なので、検察官(検察官自身は「ガバメント・アトニー」(直訳すれば、政府の弁護士)と呼んでいたが、「検察官」である)と被告人、被告人の弁護士が在廷している。事件は1999年12月3日の銀行強盗である。被告人側は、指紋の証拠性について争うと事前に知らされていた。
まず、裁判官、検察官、弁護士の間で、今回の事件に関する先例について議論がなされ、被告人の弁護士は、裁判官から、ある先例と本件との区別をはっきりさせるようにいわれていた。それから、驚いたことに、裁判官が、被告人の弁護士に対し、今日、オフィスに戻ったら必ず他の弁護士に相談し、明日は必ず別の弁護士と一緒に来るようにいった。この弁護士は少し能力が低いと見られたか? 日本でも、今後、弁護士を大量に増やす計画で、ロー・スクールの設置を議論している。将来は、日本でも(少し?)無能な弁護士が大量に出現するかもしれない。
議論は、1時間ほどで終わり、5分の休憩が宣言された。休憩後は、今日の中心課題である「ジュリー(陪審員)・セレクション」である。まず、40人の陪審員候補者が入廷した。裁判官は、その全員に対し、一般的な注意をした。その中で、ここ(大学の校舎)で裁判が開かれていることに関し、これは「プラクティス」でも「デモンストレーション」でもなく、またテレビでやっている番組(こちらでは、「ジャッジ・・・」という番組が各放送局で放送されている。そこでは、隣人、夫婦、知人・・・、などの間の紛争を、実際の証言の元に裁判官役の人が裁いていく)でもなく、実際の裁判であることを強調していた。何でも、裁判所の建物が現在改築中で一部裁判が開けないそうで、その間、開かずにおくと裁判が停滞するので、大学を使って裁判を開いている旨が説明された。その後、無作為抽出(裁判官によると、以前はカードを抜き出す方式で行われていたが、現在はコンピュータが行うそうである)で、陪審員の定員である13名が選ばれた。といっても、これで陪審員のメンバーが確定したわけではない。
まず、その13名について、検察官、被告人、被告人の弁護士の知り合いではないかが尋ねられた。全員がノーであった。
次に、以前に陪審員になったことがあるか尋ねられた。数人が手を上げると、裁判官が、その事件、その結論、議論にどのようにかかわったかを尋ねた。中には、この裁判官の事件で陪審員をしたと返答している人もいた。この質問は、陪審員として慣れた人がいると、どうしても議論をリードしてしまうので、極端な場合は排除しようとする意図であると理解した(この中で、以前の民事裁判で被告が「ギルティ」であったと説明した人がいたが、「ギルティ」は刑事事件で使う用語であって民事事件では使わないと注意されていた。日本でも、たとえば、損害賠償請求訴訟で被告が負けると「有罪」という人がいるが、どこの国でも素人の状況は同じである)。
次に、本人、家族、親しい友人、親戚に、法廷に関係する仕事をしている(あるいは、していた)人はいないかが尋ねられた。数人が手を上げた。たとえば、ある女性は夫が警察官であると返答した。裁判官は、仮に警察官が証人として証言した場合、公正な判断ができるかを尋ねたが、その女性は、少し考えてイエスと答えていた。また、別の女性は、以前、警察で事務の仕事をしていたと答えたが、同様に公正な判断ができるか尋ねられ、イエスと答えていた。また、友人がFBIで働いていると答えた女性には、その友人との関係、さらに公正な判断ができるか尋ねた。この女性もイエスと答えた。この質問は、裁判の公正さを保つための質問である。
次に、以前、裁判にかかわったことはないかを裁判官が尋ねた。数人が手を上げた。ある人は、訴訟を起こしたことがあるといい、また別の女性は、刑事事件の証人になったことがあると答えた。ここでも、裁判官は公正な判断ができるかを尋ね、全員がイエスと答えた。この質問は、極端に訴訟慣れした人を排除する質問であろう。
次に、裁判官が身体的・精神的に、陪審員に耐えられない人はいるかを尋ねたところ、数人が薬を飲んでいると答えた。裁判官は、その薬は公正な判断をできなくするものかを尋ねたが、全員がノーと答えた。また、ある女性は、視力が弱く写真をよくみられないといった。検察官は、実際に写真を見せてこれが判別できるかを尋ねたが、女性はめがねをかけ、イエスと答えた。
裁判官は、最後に、この裁判の予定を述べ、都合の悪い人はいないかを尋ねた。予定では、明日(木曜日)証拠調べ、明後日(金曜日)評決の予定だが、もしかすると月曜日までかかるかもしれないといっている。ある女性は、月曜日にカレッジの授業があるといったが、裁判官は、月曜日にかかるようなら、裁判官がプロフェッサーに話をするといった。また、別の女性は、子どもの世話をしなければならないといったが、裁判官はどのくらい必要なのかを尋ねていた。
その後、検察官と弁護士が順々に陪審員候補者に対し個別に質問をした。
そして、裁判官と検察官と弁護士が相談を始めた。この際、相談の内容が他人に聞こえないように、法廷内に風の音のような雑音が流された(最初は、マイクの故障かと思った)。相談後、数人が名前を呼ばれ、陪審員を免除された(こちらでは、陪審員になるのは義務だから、それが免除されるのである)。この際、理由はまったく述べられない。たとえば、夫が警察官の女性は免除されたが、薬を飲んでいるともいい、何が理由なのかはわからない。免除された人数だけ、また陪審員候補者が補充され、まったく同じ質問をされる。そして、検察官、弁護士にも免除する権限があり、前回、免除にならなかった人も突然、免除される。この際にも、理由はまったく述べられない。ただ、免除が宣告されるのみである。
こうして、順々に何人もの人が免除され、その都度、候補者が補充され、検察官と弁護士がオーケーといって、やっと13人の陪審員が決まったのは、約2時間後の14時50分であった。陪審員候補者のまま残った人は17名(数え間違いでなければ)。陪審員は13名。結局、10名が免除されたことになる。
20分の休憩を経て、15時10分再開。今度は、裁判官が13名の陪審員に刑事法の基本と陪審員の仕事を教示した。陪審員の仕事は大きく分けて2つある。1つは事実の認定。もう1つは法の適用である。その後、陪審員としての義務を説明される。この事件について外で話してはいけない。この事件について新聞、テレビ、ラジオを読んだり見たり聞いたりしてはいけない・・・・・。陪審員も大変である。
その後、冒頭陳述が行われた。検察側はモンタージュや指紋などの証拠を挙げて説明し、被告人側は、証言のあいまい性や指紋の証拠性について反論した。
16時に陪審員退出。その後、法の適用について議論がなされた。被告人側が出した申し立てがいくつか棄却された。やはり被告人側弁護士は少し頼りないか。たしかに、検察官の話し方は常に自信たっぷりだが、被告人の弁護士は、自信がなさそうに話すことが多い。これだけでも不利なのに。
16時30分、明日9時開廷を宣言して終了。
感想:@ジュリー・セレクションにこれだけの手間がかかっている。日本でこれだけの手間がかけられるか。
A初等教育の違い。大学の授業に出てみても感じることだが、初等教育が違いすぎる。こちらの人は、何でもかなり積極的に発言する。日本人には無理だ。
Bこちらの人は、陪審員になるのは国民の義務だと教育されているのだろう。わが国でも、どこまで国民を教育できるかが、「素人参加」の鍵である。裁判所に呼び出されても無視する人が多いようでは、陪審員制度は成り立たない。
Cさすがにアメリカだけあって裁判官も壇上でコーラを飲みながら裁判をしている。日本の裁判と違って、裁判官が話し続けている(さすがに、「マイ・コート」だけのことはある)ので、喉が渇くのだろう。日本では考えられないが。ちなみに、陪審員の中にはガムを噛み続けていた人がいたが、問題ないようだった。しかし、帽子をかぶったままの陪審員には、係員が脱帽するように要求していた。
2002年9月3日(火)晴れー上の子の誕生日
上の子の誕生日である。ナーサリーでは、誕生日の人が他の子どもにケーキを振舞うらしく、シカゴに出かける前に妻がカップケーキを注文しておいた。ところが妻が朝取りに行くと、注文を忘れていたようで、用意ができておらず、15分後にまた来いといわれたようだ。結局、また取りに行ったが、淡々と処理されただけのようであった。上の子は、ナーサリーで誕生日会をしてもらい、結構楽しんだ模様。
出かけに、斜め下の住人に会ったので電話が直ったかを聞いたところ、すでに直っているとのこと。しかし、真下の住人は直っていないといい、すでに7回、苦情の電話をかけたという。そこで我が家ももう一度、ハウジングに電話してから、ナーサリーに出かけることにする。
クラスに出て帰宅すると、真下の部屋の電話が直ったとのこと。なんでも、ハウジングまで出かけていき、スーパーバイザーに直接苦情をいったらすぐに直ったそうで、我が家もスーパーバイザーに苦情をいうべきだという。しばらくすると、スーパーバイザーが真下の部屋に(説明に?謝罪に?・・・)来た。今度は、隣の住人がかなり強く苦情をいったようで、そのことを我が家まで伝えに来てくれた。そしてしばらくすると電話会社の人がやってきて、やっと電話が通じるようになった。といっても、一時的な修理で、むき出しの電話線をアパートの手すりに通して、バイパスを造っただけの物。すでに直っている部屋のためにすでに細い線が1つ通っていたが、今回は太い線を2つ設置した。結局、各部屋の電話が通じていないことを承知の上で、強く苦情をいった部屋だけを通し、他の部屋は不通のままにしておく予定だったらしい。これがアメリカの現実だ。
2002年9月2日(月)どしゃ降り後曇りーレイバー・ディ
シカゴからの帰り道、どしゃ降りに見舞われた。できれば雨の中の高速道路は避けたかったがやむを得ない。仕方がなく走行したが、道が悪く、雨が轍に溜まっているし、どしゃ降りで視界が悪い。前の車のテール・ランプも見えないくらいだ。対向車線で3回、事故渋滞しているのを見た。いずれも追突のようであった。我々の走行している車線でなくてよかった。行きでも対向車線が事故で大渋滞していた。いずれも我々の車線でなくてよかった。この点では、ついているようだ。
帰宅したが、相変わらず電話は直っておらず、不便である。
2002年9月1日(日)晴れーシアーズ・タワーと水族館
シカゴ2日目は、まずシアーズ・タワーへ行くことにする。現在は、世界で2番目に高いビルとなったが、最近まで1番だったビルだ。道を間違えて少し遠回りしたので、ビルまで時間がかかったが、ついてみると、混雑しているので上に行くまでに2時間かかるといわれる。ここまで来て帰るのもシャクなので、チケットを買うための列に並ぶことにする。最初は、妻と上の子が並び、私は下の子のベビー・カーを押しながらあちこち行っていたが、下の子が泣き出したので、下の子も妻のところへ行く。チケットが買えると次は映画・・・。なかなか上まで行けない。映画が終わって、エレベータへ乗るための列に並ぶ。しばらくして、やっとエレベータへ乗る。これで1分で展望室へ。エレベータの中ではビデオが流れていた。上からの眺めは・・・、確かに高い。
ホテルにチェックインし、次は水族館へ行く。イリノイ州でかなり大きな水族館だそうだ。しかしシアーズ・タワーに時間をとられてあまり時間がない。そこで、水族館は、鯨やいるかがいる方は諦め、小さいほうだけ見ることにする。
その後、電気で走る小さな電車があったのでそれに乗り、中心部まで戻った。シカゴ泊(ヒルトン・シカゴ・ホテル泊)
追記:シカゴの中心部で、道路に車を停車して地図を見ているとき、警察がやってきて交通の障害になるから今すぐ車を移動させろという。同じ道路ににはたくさん違法駐車している車もあるのに、それらの車はまったく取り締まらない。どこの国でも警察の行動は同じか・・・・。まあ、問題が起こると面倒なので、すぐに移動させたが・・・。