学生学生問先生先生先生
 大学で学生に法律学の講義をするようになって9年間が過ぎようとしている(肩書きはどうでもよいのだが、他大学で「講師」として3年間、金沢大学で「助教授」として6年間である。実はその前に「助手」という仕事を4年間しているが、講義はしていなかった)。長いようで短い9年間であった。そして、来年度はいよいよ節目の10年目を迎えようという今年、私は教育方法上の大変革を行った。
 私の出身大学では、たとえば、私の学部・大学院を通じての指導教官は、150名を超える学生を前に学生をランダムに指名し、問答形式の講義を行っておられた。また、完全なケースメソッドを採用し、通常の「講義」は行わず、判例の検討を問答によってのみなされる先生、さらには成績評価に関する特典付きで希望者を募り、希望者を「指定席」に座らせ、それらの学生を対象として、問答形式の授業をされる先生がおられた。問答形式は、アメリカのロースクールの授業で採用されている方式であり、これらの先生は、例外なくアメリカ留学の経験があった。問答形式の授業は学生の十分な予習を前提とするとともに、教師の側にもかなりの熟練と前提となる知識が必要である。
 私も、これらの先生からかなりの刺激を受け、大学で教員となった当初より、講義で「指定席」制の問答形式を採用した。私が最初に専任として授業をしたのは法学部ではなかったが、一応、専門である民法の講義を担当できた。学生も、法律学を専門とするものではなかったが、それなりに興味を持ち、授業にも取り組んでいた。そして、指定席制も、それなりに効果が上がっていると思っていた。その後、私は金沢大学法学部に移った。法学部で民法を担当することとなったのだから、私は、迷わず「指定席」制の問答形式の授業を継続することとした。金沢大学法学部で最初に担当した講義は「債権法各論」であったが、問答形式の「指定席」の希望者を募集したところ、3名の希望者しかなかった。翌年担当した「物権法・担保物権法」でも希望者は3名しかいなかった。しかし、彼/彼女たちはそれなりによく勉強し、よく努力する学生だったので、授業中の受け答えとしては一応満足のいくものであった。
 「指定席」の希望者が格段に増加したのは、「民法総則」を担当した時であった。そもそも「指定席」の適正規模は15名程度と考えており、3名では質問のサイクルが非常に早く回転し、学生が大変である。それが「民法総則」では、いつも15名程度の希望者があった。この理由とするところは、私が見るところ、「民法総則」が2年生前期配当であることが大きいと思われる。すなわち、大学でいよいよ専門科目の授業が本格的にスタートし、学生にやる気があるというのが理由であったのであろう。
 しかし、近年の授業では、あるいは「先輩」から「指定席」は実は「甘くておいしい」制度であるという情報が行き渡ってしまったのか、「指定席」の学生があまりうまく返答できなかったり、予習・復習不足が明らかである状況が多発した。指定席には「成績評価に関する特典」があり、皆出席という条件を満たすと、期末試験を受験しさえすれば、成績評価が1ランク上とされる結果、成績が不可となることはない。それを目的に「指定席」を希望し、質問には「分からない」と答える学生が増加してしまった可能性がある。
 そこで、今年度後期は「指定席」を採用せず、一方的に話しかける普通の講義形態の授業をするとともに、毎回講義のレジュメを作成して講義の際に学生に配布することとした。この方式は、学生にはおおむね好評のようである。いわく、「指定席の学生は、ろくな答えをしないのに特典だけもらっている」「学生が返答に詰まり、授業が無駄に中断されていたが、それがなくなった」「レジュメがあると今何をやっているのかわかりやすい」などなど。
 しかし、私は、問答形式の授業をいつか再開させたいと考えている。先に記したところによると、中断している理由は、主に学生にあるかのようだが、私にも反省すべき点がまったくないとは思っていない。特典の与え方、予習の誘導、問答での誘導、授業レベル、判例の扱い方・・・。そして、何よりも民法学についての深い研究、十分な知識。ちなみに本稿のタイトルは「ガクセイガクナマニシテセンセイニトエバセンセイマズナマナリ」と読むのだそうだ。「学生」というコトバと、先生というコトバに隠された本来の漢字の意味からして非常に興味深い。「先生」というのは、先にウマレタだけでなく、まずナマで未熟だという意味であったのである。自戒し、精進したい。
 (「法窓」19号(平成12年3月))


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