金沢見聞録


(Since 10/8/1999)


3.歩行者の交通死亡事故を考える
 私が専門にしている民法学では、現在、判例(裁判例)というものも、重要な研究対象となっている。そして、過去に新聞雑誌も重要な材料であると指摘されたことがあるが、いまのところ、法律学と新聞学の有機的連携はなされいない。私の研究とも少し関係があるといえるが、今回の発端は、報道である。
 別に述べたように、私は名古屋から金沢へ移り住んだ。名古屋は道が広いことで有名だが、金沢は道が狭いことで有名である。それにとどまらず、私は、金沢において交通死亡事故のニュース(新聞・テレビ)に接する際し、名古屋と金沢では顕著な違いがあることに気づいた。すなわち、名古屋の死亡事故は、自動車乗車中の者が死亡することが多いのに比べ、金沢の死亡事故は、歩行者が自動車にはねられ、ひかれ、死亡することが多いのである。統計上は、同じ「交通事故死亡者」であるが、まったく違いがあるのではないだろうか。
 自動車乗車中の死亡事故防止は、シートベルト、エア・バック、衝撃吸収ボディなど、自動車の安全性能向上によって行われてきた。これは、運転者の不注意が一定の確率で起こることが避けられないとした上で、事故が起こった場合の安全確保を目指したものである。これは、これで、ある程度、やむを得ない側面がある。
 他方、歩行者の死亡事故防止のためには、自動車と歩行者の物理的隔離が重要な課題であり、各地で歩道充実が課題となっている。名古屋は、その点、非常に進んでいて、生活道路までかなり歩道が設置されており、自動車と歩行者の分離はかなり進んでいるといえよう。他方、金沢では、道が狭いこともあって、いわゆる主要道路であっても歩道が設置されておらず、自動車と歩行者が混在しているところが多く、まず、ハード面で、自動車と歩行者の分離が遅れているといえる。また、さらに問題なのは、歩行者の意識として、自動車と歩行者の物理的分離という観点がまったく欠けているようにみえることである。
 金沢において、歩行者は、歩道があっても車道を歩く場合がある。また、信号機・横断歩道がなくても、歩行者は適当に道を横断する。片側3車線程度の道であっても、車をぬって道を横断する。横断禁止の標識があっても構わず横断する。
 どうしてこうなったのかを考えてみた。まず、歩道があっても車道を歩くことについては、おそらく、雪が降ることと無関係ではあるまい。雪が降ると、車道は除雪されるが、歩道が除雪されることは少ない。必然的に歩行者は車道を歩く。その意識が雪のない時期にまで持ち込まれ、車道を歩くのに抵抗がない。ちなみに、金沢大学へは、市街地から県道を2キロメートル程度入らなければならないが、山を切り開いて新しくできた道路でもあり、かなり広い歩道がついている。しかし、雪のない時期であっても、ジョギングをする人は車道を走り、歩道は自転車通行可であるにもかかわらず、自転車は車道を走る。
 次に、適当に道を横断することについては、おそらく、道が狭いこと、および狭かった道を広げたことと無関係ではなさそうである。道は狭ければ狭いほど横断するという観念を持ちにくい。金沢の道が狭かった時期、市民は道を横断するという意識をほとんど持たなかったのであろう。そして現代的需要により、道の拡幅がなされるが、古くからの住民は、昨日まで横断していたところで、同じように横断するのである。道が広がったからといって、50メートル先、100メートル先の信号・横断歩道を利用しようとは思わないのである。このことは、自動車にはねられて死亡する者が、多く老人であることからも伺える。古くからの習慣を変えられないのである。しかし、通常であれば、自動車の方が歩行者を避ける。避けられなかったとき、事故が起こる。
 夜間の事故について、一言付言すれば、歩行者の誤解がある。すなわち、歩行者からは自動車が見えている。当然、自動車からも自分が見えていると考えてしまうのである。夜間、自動車からは歩行者は見えない。車道には歩行者はいないという前提で自動車は運転されている。そのことを、より認識すべきである。
 かくして、自動車と歩行者の混在状況が現れる。そして、歩行者が自動車にはねられる。新聞報道によれば、老人の道路横断中の事故が多発していることは、当然、行政も認識しており、そのことの対策もとられるとのことである。そのためには歩行者の意識改革が重要であるが、現状を見ると、なかなか達成されている様子はない。
 最後に、歩行者の意識という点で、名古屋と金沢の違いを1つみつけた。私が小学校のころ(当然名古屋で)、交通安全の標語に「手を挙げて、横断歩道を渡りましょう」というのがあった。これに対し、金沢で耳にした標語は「よく見たね、車来ないね、渡れるね」であった。これらには、道の「どこで」横断するかという意識の点で、決定的な違いがある。金沢では、車が来なければ、道は渡ってよいのである。それを変え、横断歩道、できれば信号機のある横断歩道を渡ることが、歩行者の命を救うのである。
 「急がば回れは、命を救う」
 (平成12年1月29日)


2.ハードがソフトを規定する
 昨日まで、京都の学会に出席していた。といって、ここで京都の話をするのではない。
 京都へ行くのに金沢からはJRを利用するのが便利である。とくにサンダーバードができてからは、これに限る。ということで、JRの金沢駅からサンダーバードに乗り込むことになる。
 金沢駅では、録音された女性の声で「整列乗車にご協力をお願いします」という放送が頻繁にながされている。実は、金沢駅では、整列乗車があまり行われず、とくに県外利用者からの苦情でこのような放送をするようになったのだそうである。連休で観光シーズンであったこともあり、金沢駅には観光客がかなりいた。今回も、不快な思いをした観光客がいなければよいのだが。
 ところで、金沢では、当然、列のできてよいところに列ができない。よい例がバス停である。多くの地方では、バス停では、先にバス停に来た人から自然と列ができ、バスの到着と同時に順序よくバスに乗り込むのであろう。しかし、金沢では、バスターミナルのような始発駅でも、乗客の列ができているのを見るのは、長距離バスの乗り場だけである(県外利用者か)。市内バスの乗り場では、通常、乗客はバス停周辺で無秩序にバスの到着を待っており、バスの到着と同時に乗り口に殺到する。私などは、普通、バス停に「1番先に着いた客が待つ場所」(普通道路に接している)で待っているのだが、バスが到着する間際になると、必ず、1人、2人が私の前に割り込んできて、先に乗り込んでいくのである(実は、バスと接触しそうで危険でもある)。つまり、金沢では、「先に着き、先に並んだ人から順序よくバスに乗る」という概念は全くない。同じように電車のプラット・ホームで整列乗車し、「先に着き、先に並んだ人から順序よく電車に乗る」という概念も全くない。
 そこで、この原因を考えてみた。そこで思い当たるのが、バス路線の組み方とバス停の状況である。
 金沢のバス路線は、金沢駅、香林坊、兼六園下など、おもな中心部と郊外を結ぶように走っており、おもに放射状にバス路線が組まれているが、金沢駅から香林坊、片町、県庁前などまでは、かなり多くの路線が重なっており、行き先の違うバスが、いくつかの同じバス停に止まりながら走っていく。そしてこの間、行き先の違うバスが連なって走ることが多い。そして、バス停に着くと2〜3台のバスが乗降時間節約のため同時に違う場所で乗り口を開けていることがあり、乗客はそれぞれ目指す乗り口へ殺到する。以上のような乗り口がどこになるかわからない状況下では、バス停で並ぶこと自体が無意味であり、乗客は並ばない。従って、バス停で並ぶ習慣がないから、並べる状況下(たとえば、始発のバスターミナル駅で行き先毎に必ず1つの場所に乗降口がくるようにバスが止まるようになっている場所)でさえも、並ばない。JRのホームでも並ばない。
 これは、ハード(金沢のバス路線とバス停の状況)がソフト(金沢住民の心)を規定した一例であろう。最後に、エピソードを1つ。私は、習慣からつい並びたくなる。そこで、スーパーマーケットのレジでは、お金を払っている人がいれば、商品を持ってその人の後に並ぶ。しかし、金沢では、かなりの頻度で後から来た人(おおくは女性なのだが、男性のこともある)がレジのカウンターの上に商品を差し出し、先にお金を支払おうとする。そして先に払っていく。しかしこの頃、すこし状況が変わってきた。レジ係が、明らかに私の方を先にしようとするのである。「先に待っていた人を先にする」という心遣いなのか、あるいはレジ係のマニュアルによるのか。中には、他の客を先に済ました後で、「お待たせして申し訳ありません」というレジ係も増えてきた。そして、このようなお店は、決まって地元資本ではない。
 もちろん、どちらの状況がよりよいかという議論は当然あり得よう。しかし、社会から秩序がなくなったら終わりだと思うのだが。
 「焼け石に水でもやらないよりはまし。みんなで並んでみよう」
 (平成11年10月12日)


 1.交通ルールとは何だろうか
 31歳まで暮らした名古屋から金沢へ移って約6年半が経過した。「郷にいれば郷に従え」という言葉が存在すること自体が示すように、狭い日本とはいえ、各地に「ローカル・ルール」が存在することはやむを得ないだろう。しかし、こと交通ルールに関しては、命にかかわるのである。
 私が、金沢に来て最初に車を運転した日(つまり、名古屋から車で来た日)、金沢市内の交差点で左折しようとして合図をしながら曲がろうとしたところ、対向の右折車が強引に私の前に割り込んで右折していった。右折車の運転者は、いかにも若者という感じだったので、なんと無謀な運転をするのだとその時は考えた。しかし、その後、私は気づいた。金沢では、老若男女を問わず、対向右折車が左折車の前に割り込んでくるのである。もはや、このような慣行があるといって差し支えない。
 これは明らかに道路交通法37条に反した慣行である。聞くところによると、金沢は道が極めて狭いので、右折車が交通の障害になる。そこで、対向直進車でさえも右折車に(なるべく?)道を譲るという金沢らしい謙虚な慣行が生まれたらしい。しかし、繰り返しになるが、この慣行は、法律に反しており、また、金沢以外の運転者は、もちろんこのような慣行を知らないのである。当然、対向右折車は待つものと思って、交差点に進入することになる。
 また、先の慣行から派生したと考えられるのだが、金沢の運転者は、右左折の合図をするのが極めて遅い(ハンドルを回し始める直前である)。左折の場合、理由はいわずとしれたこと、曲がる直前まで直進車のような「顔」をしていれば、対向右折車は曲がってこない(直進車が明らかに道を譲っていない限り、衝突は免れないから)。したがって、合図を遅くする「合理的理由」があるのである。しかし、この慣行も実は法律違反であり、合図は交差点の手前30メートルの地点からすることになっているのである(道路交通法53条2項、道路交通法施行令21条)。
 そのほか、金沢のローカル交通ルールとして感じることがまだまだあるが、今回ここで具体的に指摘するのはやめよう(といっても、別にまた取り上げる予定であるが)。このような問題は、金沢だけの問題でなく、全国どこにでもある問題だからである。しかし、その土地で走っている車は、その土地の人が運転しているとは限らない。とくに金沢は「慣行の町」ならぬ「観光の町」だから観光客の車もいっぱい走っている。金沢の慣行ゆえ観光客に事故が生じなければよいのだが。とにかく、危ない。
 「郷にいっても、郷に従えないことがある」
 (平成11年10月8日)

 追記
 『JAF MATE』2008年4月号36頁・37頁に、「事故ファイル VOLUME 089 ローカルルールが引き起こす事故」として、「松本ルール」が紹介されている。金沢と同様に「右折優先!ルール」が存在する松本での事故から交通ルールにおけるローカルルールを考える記事である。似たようなことは、奈良でも存在すると紹介されており、右折優先というローカルルールは、もともと道が細く、戦災を受けなかった古都や城下町での「宿命」なのかもしれない。しかし、地元の人は、それが道路交通法違反だということを全く知らないとは、自動車学校は何をしているのだろうか。
 (平成21年3月6日)


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