日常のページ

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(最終更新:平成19年8月24日)


12.ラジオ体操の巻の続きの巻の続きの巻の続きの巻(一応の最終回)
 今朝で今年の分の町内会の子供会のラジオ体操が終了した。朝6時30分までに子どもを連れて近所の公園に行かなければならず、それなりに早起きしていたが、今日で、終わりである。
 実は、ここ数日は、参加する子どもの人数が減ってきていた。もちろん家族で旅行へ行くなり、理由があって来なくなっている子どもも相当数いるだろうが、もう一つ思い至ることがある。
 先に記したように、一定数出席した子どもは、財産的な利益を伴って表彰されることになっている。そして、この「一定数」は最初から8割以上と明示されている。今年のラジオ体操の回数は全部で20回である。ということは、16回以上出席すれば、条件を満たす。そこで、最後の数回をサボったのではないか……。
 大学でもよくあるのである。規則で授業回数の3分の2以上出席しないと単位が認定されないとすれば、「あと何回休めるか」を計算し、休もうとする。授業は基本的に全部出席するものである。もちろん病気にもなるだろうから、必ず全部出席しなければならないとすれば、それは、なかなか難しい場合もあるだろう。そこでの「あそび」「ゆとり」「余裕」が3分の1である。そうだすれば、これは多すぎないか。期間中、1回か、せめて2回でよい。ラジオ体操でさえも8割以上出席なのだから、せめて8割以上を求められないか。大学の授業の現状は、6割6分7厘の出席で、6割を試験で取れば単位認定(合格)である……。
 ちなみに、金沢大学大学院法務研究科では、単位認定のための出席要件は、全学の要件より厳しく設定されている。
 (平成19年8月24日)


11.あいち健康プラザ健康科学館企画展示の巻
 お盆に帰省した際、あいち健康プラザの健康科学館で「スポーツを科学する」という企画展示がなされていた。
10メートル程度を走って100メートル走のタイムを予測計測したり、バーチャル・シミュレーションでフォークボールを打ったりと、いろいろ楽しい参加型の展示がなされたいた。
 その中でも、上の子どもと熱中したのは、スピードガンで投げたボールのスピードを計測できるコーナーであった。少し硬めのゴムボールを10メートル程度離れた1メートル四方程度の的に投げ、投げたボールのスピードを計測するコーナーである。私は、少々、自信があったのだが、45歳という年には勝てず、94キロしか出なかった。20年前なら軽く100キロは出ていたと思うのだが。まあ、ボールがゴムボールだし、硬球か軟球であれば、今でも100キロ出たかもしれないと思っておく。ちなみに、大人の男性でも70キロ代が普通で、そもそも的に当たらない人も多数である。的に当たらなければ、計測不能となり、スピードは表示されない。大人の女性も、なかなか的に当たらない。中には、小学生で100キロを出す子もいて、少々、シャクではある。明らかに野球少年であった。
 男性・女性別に、小学校低学年、小学校高学年、中学校、高校・一般に分けて、最高記録も表示されていた。男性・高校・一般の最高記録は、150キロであった。あんなゴムボールで150キロを出せるなんて、プロ野球の選手でも来たのだろうか。
 小学校3年生の上の子は、78キロを出していた。年長組の下の子は、45キロを出していた。上の子は、スピードボールが大好きで、「名古屋人」である私の影響で、プロ野球は中日ドラゴンズを応援しているようだが(常々、なぜ金沢にプロ野球球団がないのかと不満そうである。石川ミリオンスターズも少々応援しているようではあるが)、ピッチャーでは、阪神の藤川、横浜のクルーンが大のお気に入りである。上の子は、150キロ代のボールが、実は、自分の投げているボールの倍のスピードであることに気づいて、あらためてプロ野球の凄さを感じたに違いない。
 (平成19年8月18日)


10.ラジオ体操の巻の続きの巻の続きの巻
 子供会のラジオ体操についてさらに……。
 普段、遅れて来る子どもは、今日は、ついに、ラジオ体操が全て終了し、子どもたちが出席印を押してもらうために列を作っている最中にちゃっかり現れて、列の最後についた。「いい加減は、感覚が麻痺することにより、どんどんエスカレートしていく」ことを如実に示している。最初から来ている子どもとの違いは、たかだか10分程度なのだが。
 以上書いてきたことは、子供会が夏休みにラジオ体操を実施している趣旨にもより、賛否が分かれるだろう。夏休みのラジオ体操の趣旨としては、
 @学校が休みになり、夜更かしをして朝遅くまで寝ていることを防止し、規則正しい生活のリズムをつける
 A1つのことを最初から最後までやり遂げる精神力を涵養する
 B体を「鍛える」
 C地域の交流を深める
などが考えられるが、そうだとすれば、1つでも目的にかなっていれば、先に書いてきたようなことには目くじらを立てるなということにもなるかもしれない。ただ、子どもの頃から「ただ、要領よくやればよい」という感覚が染みつくから、今の日本の社会がどんどん悪い方向にいっているのは、間違いないのだが……。
 ちなみに、昨日の夕食は、下の子どもが食べたいというので、回転寿司にいった。食べ終えて、食べた皿の枚数を数えるとき、お店のお姉さんが157円の皿の枚数を1枚少なくカウントしたので、私は、その場で、指摘し、伝票を訂正してもらった(実は、「おあいそ」をする前に上の子どもと食べた合計金額がいくらになるか暗算で計算する競争をしていたので、皿の枚数をすべて知っていたのである)。小学生の子どもは、「言わなければ、157円得できたのに……」というようなことを小声で言っていたので、「いや、こういう場合は、きちんと訂正しなければいけない。その方が後で気持ちがいいだろう」と教え、一応、納得していた様子であった。たかだか157円と考える人もいるだろうが、ようは金額の問題ではない。
 法学部で刑法を勉強したのは、すでに遙か昔、25年くらい前になり、記憶が定かではないが、買い物をしてお釣りが多いのに気づいたにもかかわらずその場で指摘せずにそのまま多いおつりを受領すると不作為による詐欺罪になるはずである(釣銭詐欺)。伝票で数量・金額を間違えたことを知ってその場で指摘せず、そのまま少ないお金を払って店を出る行為も、質において同様なような気がするのだが……(間違っていたら、申し訳ない。以上は、あくまで「専門家」としての見解ではない)。それ以前に、「気持ち」の問題でもある。このような「教育」が重要なのではないだろうか。
 (平成19年8月10日)


9.ラジオ体操の巻の続きの巻
 子供会のラジオ体操では、子どもに対するインセンティブも兼ね、ラジオ体操に行くと、出席カードに「出席」の印が押される。私が子どもの頃は結構まじめにやったものだが、今年、親として始めて毎回「出席」していて、非常に不満に思うことがある。
 1つは、ラジオ体操終了後に出席印が押されることをいいことに、毎回、終わりの頃にやってくる子どもがいることである。そう、第二体操の「片足跳び」の頃が多い。たしかに、子どもとしては、毎朝の早起きは大変だろうし、終わった頃に行っても、最初からいても、同じ出席印が押されるなら楽な方がよいと考えるのだろうか(違っても8分くらいというのが陳腐だが)。あるいは、親がそれでよいと言っているのだろうか。この問題は、現在、社会が抱えている1つの病理でもある「まじめな者、一生懸命やっている者」と「ふまじめな者、いい加減な者」を区別できない(しない)ことに通じている。このような「抜け道」を許さない方策としては、毎回、最初と最後に印を押し、両方ある者だけがその回の「出席」と扱われることだが、子供会のラジオ体操でそこまでするか〜という声が聞こえてきそうではある。
 もう1つは、来ていても体操をせずに、ただ、他人と話をしているだけの子どもがいることである。ただ親に言われてきているのか、あるいは出席印だけが欲しいのか(実は、一定数の出席があると、500円程度だが財産的な利益を伴って「表彰」されることになっている)。この問題は、おそらく、現在の小学校の学級崩壊に通じている。その場にいればよく、何をやっていてもよい?!こちらの方は、先日、あまりにひどかったので、「先生根性」が出てしまい、注意した。最近、大人が他人の子どもを叱ることが極めて少なくなったように思うが、私は、職業柄か、他人の子と自分の子をあまり区別せず叱っている。
 近所づきあいや「逆ギレ」もあって、地域でも住みにくい世の中になってきたが(近所の手前、他人の子を叱るのをやめろという「助言」もある)、常に「正義が勝つ」世の中であって欲しいものである。

 付言:1つめの問題は、大学生になっても授業の終わり頃に講義室に来て、授業終了後、「出席していました」とわざわざ教卓まで言いに来るような学生を「生産」する温床になっている。2つめの問題は、大学生になっても授業中に携帯電話のメールを打っている学生を「生産」する温床になっている。三つ子の魂百まで。小学校の頃から、「何をすべきか」を教える教育をしてもらいたいものである。
 (平成19年8月9日)


8.ラジオ体操の巻
 子どもが夏休みに入り、子供会のラジオ体操が始まった。昨年までは上の子のみ参加であったが、今年は保育園年長組の下の子も参加している。
 子供会にはラジオ体操参加の条件があり、幼児には保護者が付き添うこととなっている。下の子は幼児なので、保護者が付き添う必要がある。ということで、毎日朝6時前くらいには起きて、2人の子どもとともに近くの公園へ行き、ラジオ体操をする毎日である。子供会としても、不測の事故に備え、やむを得ない措置ではあろう。
 元来、朝型で早寝早起きではあるが、子どもが夏休みに入ったことにより、より早起きを強いられている状況にある(普段は、6時15分頃に起きている)。夜12時頃には寝て、朝6時前に起きる。そしてラジオ体操。なんて健康的な生活だろう。
 (平成19年8月8日)


7.「席料」?、「乗車料」?の巻
 子供が1歳を過ぎた頃から、たまに子供と一緒にJRを使って旅行をするようになった。小さな子供は、無料で乗車することができるが、単独の席はない。ずっと膝の上に座るというのは、親も子供も大変である。そこで、子供の席を確保したいと思うのだが、そのためには、正規の小人料金で、乗車券と特急券(座席指定券)を購入しなければならない。
 JRからしてみれば、席を1つ提供しているのだから、小人料金を徴収するのも当然だろうが、1つの座席の値段は、そもそも小人の場合と大人の場合では倍も違っている(これに対して、乗車券も小人と大人で倍違っているが、体重等の関係で、一応の合理性があるように思われる)。そこで、まことに勝手な相談なのだが、そもそも無料で乗車できる者に対しては、小人の半額くらいの料金で席だけ確保できる制度を創れないだろうか。親としては、そもそも無料で乗車できる子供に、小学校6年生と同じ正規の小人料金を支払うことには、少し不合理性を感じるのである。
 しかし、現在の規則は規則である。また、2歳の子供のために小人の切符を買ってしまった・・・・。
 (平成12年9月8日)


6.久しぶりにの巻
 ここ数日、仕事上の必要に迫られて、かなり久しぶりにフランス語の文献を読んでいる(それも、100年以上も前に書かれたもの)。なかなかスピード・アップしないが、すでに読んだところが増えるに従って、充実感も増している。早く全部読みたい。
 (平成12年7月21日)


5.誤用が誤用でなくなるときの巻
 近頃、ちまたで明らかに誤用と思われるのだが、多用されているような表現がある。具体的には次のようなものである。

 @5月3日〜5月4日まで
 AP.M.12:00(午後12時)
 B小学校の生徒、大学の生徒

 どこが誤用であるか。まず、@については、「〜」という表現の持つ意味についてである。「〜」に含まれる意味は、「から・・・まで」という意味であって、「から」ではない。したがって、@の表現は「まで」が重複していることになる。このような表現が登場したのは、ワープロの普及と期を一にしているように思われる。実は、ワープロの多くの辞書では「〜」を出すのに「から」と入力している(今も、そう打ちながら書いている)。したがって、書いている者の意識としては、「〜」が「から」だから、ほかに「まで」が必要になるのであろう。
 Aについては、それ自体間違いというわけではない。しかし、午前11時の1時間後を表すものとして「午後12時」というのであれば、明らかに誤りであるといわざるを得ない。なぜならば、「午後12時」は、深夜であって「午前0時」と同時であるはずである。24時間制での12時を午前午後を使って表現するのであれば、「午後0時」(あるいは、NHKのニュースでは「正午」)とならざるを得ない。「午後12時」は誤りである。しかし、我が家の自家用車の時計は、「A.M.11:59」の次は「P.M.12:00」と表示している。このような時計をこの頃よく見かける。
 Bについていえば、小学校で学ぶ者は「児童」であり、大学で学ぶ者は「学生」である。中学校、高等学校で学ぶ者が「生徒」と呼ばれる。私は、金沢大学で、学生が自分たちのことを「生徒」と呼ぶとき、「生徒」ではなく、「学生」だといつも直している。まあ、自分たちがまだ高校生程度であるという意味を込めて「生徒」だといっているのであれば、放置しておけばよいのだが、そうでも無さそうである。そして、先日、NHKのレポートの中でも、「この小学校には、生徒が2人しかいません」と表現していた。実は、誤用はかなり「浸透」しているのである。
 上の例は、「誤用」であることは間違いない。しかし、かなり多数の者が用いる「誤用」でもある。もちろん、その意味合いは少しずつ違う。@は国語(日本語)の表現についてであり、Aは論理的問題であり、Bは定義の問題である。@では、近頃、よく言及される「日本語の乱れ」と同一の問題を含む。とくに、敬語表現は、乱れているといわれるが、誤用を誤用と考えない人も増えている。これも誤用でないといえば、たとえば、「〜」は「から」を表すのだと決めてしまえば、誤用でなくなる。
 Aでは、不可侵のものである午前午後の定義から論理的に導かれるから、誤用でないとは言い難い。
 Bでは、人間が便宜的に決めた定義だから、定義を変えれば誤用でなくなる。
 最後に、すこし気になることをジョークとして1つ。日本は民主主義国家である。したがって、多くのことが多数決によって決められている。「正しい」「正しくない」の問題も多数決による場合が多い(もちろん、とくに自然科学では、真実は1つであり、どれくらい多くの人がそれを認めているかを問わない。たとえば、コペルニクスの地動説やアインシュタインの相対性理論を考えて見ればよい。発表当時は、ほとんど「独自説」であるが正しい)。さきに言及した「誤用」もみんなが認めることにより、「正しい」ものとなるのだろうか。
 (平成12年5月4日)

 ★増補
 その後、上で言及している「A.M.」「P.M.」に関し、アメリカで生活している間に気づいたことがあるので、増補したい。上では、「A.M.」=「午前」、「P.M.」=「午後」という前提で議論が進められているが、実はこの前提が誤っていた。確かに英和辞典などの辞書を引くと「A.M.」は「午前」などと説明されている。しかし、1対1対応ではないようであり、アメリカでは正午は普通に「P.M.12時」であった。このことは、「yes」が必ずしも日本語の「はい」ではなく、「no」が必ずしも日本語の「いいえ」ではない(否定疑問文を考えてみれば、容易にわかる)のと同様である。
 とくに、「yes」「no」の問題は、役所が作っているパンフレットやテレビ放送などで、あえて洒落て(?)「yes」「no」で答えているときに、否定疑問文なので明らかに「はい」「いいえ」に対応しないにもかかわらず、「yes」=「はい」、「no」=「いいえ」が使われており、かなり問題が大きい。この点は、別の機会にでも再び書きたい。
 (平成16年11月22日)

 ★さらなる増補
 最後の「誤用と民主主義」という観点で1つ。以前のNHKの「英語でしゃべらナイト」という番組で、子供たちが「ネズミ(複数)」のことを「mouse」だといってきかなかったことがあった。先生役のパックンは、「mice」だと何度もいうのだが、聞き入れられない(実は、子供たちは、複数形自体を勉強していなかった)。そこで、パックンは、「よろしい。民主主義だから」といって、その場では、ネズミの複数を「mouse」だとしたのである。これを「民主主義」というかどうかは問題だろうが、実際に「誤用」が「民主主義」によって「正しい」とされる現場をみてしまい、上の危惧が現実になったように思った。
 (平成16年11月22日)

 ★さらなる補充
 「午前」「午後」に関する詳細なご指摘をメールで頂いた(私の通った高等学校の先輩の方から)。結論のみいえば、上のAの指摘が誤用とまではいえないのではないかというご指摘である。多分に、定義、あるいは使用法の問題も含むが、もう少し考えてみたいと思う。
 (平成19年7月18日)


4.やっぱり、やっぱりの巻
 先に、「金沢見聞録 第2」で指摘したことに関し、今朝、見たことを記しておこう。
 金沢大学では、今年度、4月7日(金)に入学式が行われ、今日、4月10日(月)からガイダンスが始まっている。新入生は、朝、ガイダンスの時間にあわせてであろう、金沢大学の角間移転後、多くの学生アパートが建ち並ぶ地区からバスに乗ろうとしていた。そこでは、バス停から歩道、脇の小道へと列ができていたのである。
 新入生が多数乗車するにもかかわらず、依然として学期末ダイヤ(学生が休みになるとバスの本数が減らされる)で運行されていることについては、さしあたり目をつぶろう。ここで私がいいたいのは、列のことである。
 金沢大学の学生で、下宿をしながら通う者は、もちろん県内者もいるが、県外者が多いことは当然である。先に、「金沢見聞録」に記したように、金沢ではバス停で並ばないのが「常識」だが、県外者にとってはバス停で並ぶのが「常識」である。新入生はまだ金沢の「常識」には染まっていない。だからバス停で並ぶのである。
 しかし、そのうち、彼/彼女らも、金沢ではバス停で並ぶことが無意味だと考え、並ばなくなってしまうのだろうか。悲しい限りである。
 (平成12年4月10日)


3.石川動物園の巻
 以前、卯辰山にあった石川県の動物園が、昨年、辰口に移転した。昨年11月に行ったときには、開園直後であり、動物園に人間を見に行ったような感じだったが、今年になって、少し暖かくなったので、2度目に行ってみた。少し暖かいといってもまだ肌寒く、入場者が少なくてよかった。
 実は、長年、名古屋の東山動物園に慣れた者としては、非常に物足りないのだが・・・(私は、高等学校、大学、大学院、助手、講師と、16年間、東山動物園の近辺で昼間を過ごしていました)。
 (平成12年3月8日)

 石川動物園のごまふあざらし


2.寄付をされたらの巻
 今年度の全国高校ラグビー花園大会に、母校の愛知県立千種高等学校が出場した。結果は、1回勝ち、次で負けた。また、がんばって欲しい。
 ところで、全国大会出場などでは、OBのところに寄付のお願いがある。今回も、OBとして私のところに寄付のお願いがあった。全国大会に母校が出場するのは、気分がよいものである。私は、まったく少ないながら、選手の出場のため、生徒の応援のために使われるであろうお金を寄付しておいた。
 そして、先頃、花園大会における活躍と寄付金の収支決算を記した書面が送られてきた。
 私は、いままで、少しではあるが寄付をしたことがある。しかし、その寄付金の使い道を寄付者、とくに個人の寄付者にきちんと知らされたのは、初めてであったような気がする。すなわち、寄付を募る側は、寄付のお願いには熱心だが、そのお金をどのように使ったかを寄付者に知らせることには、まったく熱心でない。「もらってしまえば、こっちのもの」か?
 寄付には一定の趣旨がある。その趣旨通りにお金が使われてこそ、寄付者も納得しよう。寄付金の使い道が何であったかを寄付者に知らせるのは、寄付を募った者の義務ではないか。このような義務を怠っているものに、とくに大学関係の寄付が多いように思うのだが、気のせいだろうか。
 母校からの通知を見て、少し思った。
 (平成12年3月4日)


1.季節の変わり目はの巻
 10月中旬を過ぎて、急に寒い日が多くなり、風邪をひいてしまった。
 今日も少し体調が悪く、勉強に身が入らない。
 そこで、ホームページの更新を始めた。
 こんなことで、いいのだろうか。
 (平成11年10月29日)


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